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不動産コンサルタント 大野レポート No.20
タカラ塾
2011年11月26日
『ユーロ圏危機とは?現代社会の危機の根源とは?』
 2008年の米リーマン・ブラザーズの破綻に始まる金融危機によって、世界経済が大打撃を受けました。米国はじめ各国が金融緩和を実施、中国を筆頭とする新興国経済圏がこの数年、世界経済をリードしてきたが、金余り現象はユーロ圏のアイルランドやスペイン等(ギリシャ、イタリア含む)に住宅バブルや過剰消費を生み出した。
 今日、これらの国々の住宅バブルが崩壊し、債務の管理が不能に陥り、すべてのユーロ圏周縁国では経常赤字と財政赤字が持続不能な状況に至っている。しかも,過剰消費が招いた大幅な経常赤字は、景気低迷と競争力の欠如と相まって、ユーロ周縁国を深刻な事態に追い込んでいる。
 現在、2011年夏頃から始まったギリシャ危機は、欧州信用不安までに至っている。ユーロ危機は現在、大きなヤマ場を迎えつつある。
 ギリシャはデフォルト(債務不履行)に陥って通貨同盟からの不名誉な離脱を余儀なくされる瀬戸際にある。イタリアも今や市場からの資金調達が危ぶまれる状況である。
 今回のユーロ圏の問題ははるかに根が深い。危機の根源はユーロ圏の構造にあり、少なくともアイルランド、ポルトガル、キプロス、スペインの4ヶ国に深刻な影響を及ぼしている。
 新自由主義経済(投機的資本主義経済)がサブプライムローン破綻から行き着いた現在の状況は、ユーロ発の新たなる世界恐慌に至るかも知れない過程の最終章の状況にあるといっても過言ではない。一歩選択を間違うと、1920年代の世界大恐慌をすら超える混乱を来すかも知れない、まさしく未体験ゾーンに突入した感がある。
 目先の論調に左右されないためにも、人類の歴史的・社会的観点からことの本質(根源)を冷静に分析し対処することが肝要と思われます。
 特に行き詰った近現代とは何か?を考えたとき、前近代、中世に救いのようなものを見ようとしたとき、戦後アメリカの一人の思想家が浮かび上がってくる。ロバート・ニスベットだ。
 個人の自由を重視する個人主義の行き過ぎに批判的な目を向け、人がコミュニティの中で生きることを重視する立場を、一般的にコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ぶ。「コミュニティにおける人間」の大切さという観点から、よりスケールの大きなかたちで徹底した現代社会批判を繰り広げていたのがニスベットだった。
 ニスベットが代表作「共同体の探究」を出版したのは1953年である。「秩序と自由の倫理学における一つの研究」と副題がついた「共同体の探究」は、「西洋の近代の歴史は、(中世社会の)家族の絆が根こそぎにされ、村が崩壊し、手工業職人らが行き場を失い、古くからある(社会)保障の絆がずたずたにされてきた」過程に他ならないという。
 ニスベットは、家族や小さな地方共同体、あるいは教会を中心とした信仰者の集まりなどを国家(社会)と個人の間の「中間社会(結合)」と呼ぶ。
 それらが、「遠い昔から」担ってき心理的役割とともに消えつつあることこそが、現代社会の危機の根源だと主張した。人が自分は何者であり、どこに帰属するかを知る(アイデンティティ)基礎をなす「愛情、友愛、名誉、認知」は、中間社会の中でこそ得られるのに、その中間社会は凋落の一途をたどっている。
 アイデンティティの基礎が掘り崩されている。人が働き、愛し、祈り、善と悪や罪と清浄を実態として感じ取り、自由と秩序を守ろうとするかどうかは、この中間社会の帰趨にかかっている。共同体のないところに真の自由はない、という。
 ニスベットは近代の歴史が家族や村落共同体、教会中心の社会、職人やギルドを捨て去ったのは、近代啓蒙思想の原点となったホッブズ(1588-1679)やルソー(1712-78)が「個人と国家」の社会契約という理論を創り上げていく中で、中間社会の問題がすっぽりと抜け落ちたためだと見た。
 特にルソーの社会契約論は、「個人を伝統的な結合の鎖から解放するとともに、国家の力を、それを制限してきた数多くの封建的な慣習から解き放った」。
 そこから導き出されたのは、民主的な近代社会に生きる自由な個人どころではなく、人々とのつながりを断ち切られ「砂粒のようにばらばらになった個人と、そうした砂粒の個人を支配する強い政治力を持った国家だった。フランス革命とその後に現れた社会こそが、まさにそれであるとニスベットはみた。
 人々は砂粒のような状態から逃れようと、新たに共同体の回復を求めだすが、一方にはすでに強大になった国家が立ちふさがっているというのが彼の現代社会観だ。中間社会を根こそぎにしたフランス革命によって始まった近代国家は、戦争と革命を続け、ますます肥大化し、その下で、孤立した「個人」たちが何の抵抗する力もなく、国家のなすがままにされている。
 われわれは古くからの教会や寺を中心とするコミニュティや、同じ職業人同士の組合組織こそが人間の平等と自由を妨げてきたと見がちだ。だが、前述したような近代国家のイメージから、なぜニスベットが中世的な「中間社会」が人間の自由のために必要と考えたのかが分かる。
 そう考えたのはニスベットだけではない。『アメリカの民主政治』を著したフランスの政治思想家アレクシス・トクビル(1805-59)は同書で、「平等」によって、人々を結びつける共通の絆が失われたところに、専制政治が人々の間に障壁を築き上げ、ばらばらになった人々の間に互いへの無関心が生まれると警告した。
 平等な人々の孤立につけいるそうした専制から逃れようと、アメリカ人はタウンミーティングを基礎とする小さな自治体やさまざまな団体を自発的につくっていることに、トクビルは気づいた。新しい「中間社会」である。ニスベットはトクビルと、彼を引き継いでフランス革命への思想的な「反動」として始まったとされるフランス社会学から大きな影響を受けた。
 平等主義の専制は、一方でロシア革命を引き起こし、他方でナチズム、ファシズムと至り、砂粒のようにばらばらなって孤立する個人のうえに、巨大な「合理的で科学的」な国家が立ち上がる。全体主義国家の誕生だ。それがニスベットの近代史観である。「理想をドグマ(教条)へとねじ曲げていく人間の能力は際限がない。この点で20世紀の記録を振り返るとおぞましい……自由、平等、博愛、正義といった近代的ドグマの名の下に、拷問を受け、脅迫され、銃殺刑、絞首刑、毒殺に処され、牢獄ににながれ、国外追放される。20世紀にそうした目に遭った人は、それまでの歴史上のすべてを合わせたより多いだろう。」
 今日の世界、日本の置かれた現状を見た場合、大きな歴史的転換期にあるといえます。新自由主義経済(投機的資本主義経済)がいよいよ大きな壁にぶつかったといえる今日、混沌の中から真の情報を収集分析し、世界の叡智を集め、政治のリーダーシップが今ほど求められるときはないといえる。再度地域に根差した共同体を国民市民が再構築していくのか、再び起こってくるかもしれない専制政治?に身をゆだねるのか一井の国民・市民の意識、判断、決断が問われている。

タカラ塾塾長    大野 哲弘

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